第1話
第1話「午前二時の倉庫街」
裏社会の掃き溜めには、ゴミを片づけるゴミが必要だ。
それが俺——凪の仕事だった。
午前二時の倉庫街。潮の匂いと油の匂いが混じった空気が肺に重い。錆びたシャッターの隙間から漏れる蛍光灯の光が、コンクリートの床に転がる「荷物」を照らしている。蛍光灯は微かに明滅していて、そのたびに荷物の輪郭が揺れた。ビニールシートに包まれたそれが何なのか、もう考えないようにしていた。最初の頃は吐いた。二回目は手が震えた。三回目からは何も感じなくなった——嘘だ。感じなくなったふりが上手くなっただけだ。考えたところで何も変わらない。変えられる力が、俺にはない。
「おい凪、さっさとやれ。日が昇る前に終わらせろ」
無線越しに飛んでくる声。ノイズ混じりの音質でも、苛立ちの色は鮮明に伝わってくる。真壁——裏社会のランキングでC級に名を連ねる異能者で、俺の現在の雇い主だ。異能は「重力偏向」。触れたものの重力方向を任意に変えられる。発動時に必ず右手首を返す癖がある。射程は目測で約八メートル。持続時間は触れてから四秒前後——。
こんなことばかり、無意識に数えている自分が嫌になる。
他の奴らは真壁の異能を見て恐怖する。当然だ。触れられた瞬間、自分の体が天井に叩きつけられるかもしれない。壁に吸い寄せられるかもしれない。だが俺は恐怖の手前で、観察が始まってしまう。発動の予備動作、射程の限界、連続使用後の息遣いの変化。怖いと思う前に、脳が勝手にデータを取っている。この性分がなければ、もう少し楽に生きられたかもしれない。
「了解っス」
短く応答して、俺は荷物を台車に載せた。ビニール越しに伝わる体温はもうなかった。冷たい、というよりも温度がない。生きているものと死んでいるものの決定的な違いを、掌が正確に伝えてくる。重い。異能なしの十七歳の体には、文字通り重い。台車の車輪がコンクリートの継ぎ目に引っかかるたびに、腕に衝撃が走る。歯を食いしばって押す。だがこの程度の仕事ができなくなったら、俺の居場所は完全に消える。
裏社会には異能者たちの非公式ランキングがある。S級を頂点に、A、B、C、D、Eまでの六段階。力こそが通貨であり、ランクがそのまま発言権と生存権に直結する世界。そしてその下に——ランク外。能力なし。数字すら与えられない存在。俺はそこにいる。
異能を持たない人間が裏社会で生き延びるには、誰かの駒になるしかない。ゴミ処理、連絡役、囮。替えが利く仕事を文句を言わずにこなし、わずかな報酬で食いつなぐ。クラスメイトが放課後にカラオケに行く時間、俺は異能者の血痕を拭いている。漂白剤の匂いが指先に染みついて、翌日の授業でシャーペンを握ると微かに鼻をつく。
それでも腐ったつもりはなかった。
台車を押しながら、俺は左ポケットのノートに意識を向ける。表紙が擦り切れた手帳サイズのそれには、これまで観察してきた異能者たちのデータが詰まっている。能力の種類、発動条件、癖、射程、弱点の仮説。ページの端は何度もめくったせいで丸くなり、インクが滲んだ箇所もある。それでも一文字も読めなくなったページはない。書き始めたのは二年前、裏社会に足を踏み入れた日からだ。
力がないなら、目を養え。
それが俺なりの抵抗だった。いつか這い上がるための、唯一の武器になると信じて。
荷物を指定の場所に沈めて倉庫街を出ると、空が白み始めていた。東の空の縁がわずかに藍から紫に変わりかけている。スマホの時刻は四時四十七分。始発まであと十三分。汗で張りついた制服のシャツが夜風に冷たい。腕の筋肉がだるく痺れていて、指先に微かな震えが残っている。
駅のベンチに座り、ノートを開く。ホームの蛍光灯が白々とページを照らす。隣のベンチでは酔い潰れたサラリーマンが鼾をかいている。この男は今夜、何も見ていない。何も知らない。俺はペンを取り出し、今夜の記録を書き足す。
『真壁——重力偏向。右手首の返しから発動まで約〇・三秒。複数対象への同時発動は未確認。怒ると射程が縮む(推定:集中力低下)。弱点仮説:発動中は自身の体勢制御が甘くなる? 要継続観察』
書き終えて、ペンを止める。文字を見返す。自分でも思う——これが何になるのか。二年分の蓄積。この街で動く異能者の三割以上のデータが、このノートにはある。もっとも、データがあったところで異能なしの俺に何ができるわけでもない。
わかっている。
それでも書くのをやめられないのは——やめたら、本当にただのゴミになる気がしたからだ。
始発に乗り、自宅アパートで三時間だけ眠り、制服に着替えて学校へ向かう。眠りは浅く、夢の中でもビニールシートの感触が手に残っていた。目覚ましが鳴る前に目が覚める。天井の染みを数えながら、体を起こす。六畳一間のアパート。家賃は真壁からの報酬でぎりぎり払えている。親はいない——正確には、いないことにしている。
教室では誰とも深く関わらない。友人がいないわけじゃないが、夜の生活を知られるわけにはいかない。表と裏の境界線を踏み越えた人間が元に戻れないことを、俺は嫌というほど見てきた。だから誰も巻き込まない。授業中は寝たふりをしながら、昨夜の観察データを頭の中で反芻する。真壁の右手首の返し、発動までのコンマ三秒。あの隙間に何ができるか。何もできない。今は、まだ。
「凪くん、三十二ページの問題」
「……あ、はい。x=マイナス三」
「正解。寝てるのに正解するのやめてくれない?」
教室に笑いが起きる。俺も適当に笑った。隣の席の女子が「凪くんって実は頭いいよね」と小声で言ったが、聞こえないふりをした。この場所では、何も考えていない普通の高校生でいい。ここでの俺は「ちょっと眠そうな地味な奴」で、それ以上でも以下でもない。教壇の向こうに広がる窓の外は穏やかな春の午後で、桜が散りかけている。十二時間前に俺が何をしていたか、この教室の誰も知らない。
放課後、スマホが震えた。非通知。出る前から誰だかわかる。
「凪。明日の夜、荷物運びだ。二十二時に第三倉庫」
真壁の声はいつもより低かった。普段は命令口調の中にも余裕がある。部下を顎で使う人間特有の、どこか弛緩した声。それが今日はない。声帯が強張っている。荷物運びは何度もやっている。だが「第三倉庫」は初めてだ。あそこは真壁の縄張りの境界線——別の組織との緩衝地帯に近い。先月、あの一帯で異能者同士の衝突があったと噂で聞いている。
「……了解っス。いつも通りの装備で?」
「走れる格好で来い。念のためだ」
念のため。真壁がその言葉を使ったのは初めてだった。こいつは自分の異能に絶対の自信を持っている。C級の力で大抵の揉め事は片がつく。それが「念のため」と言うなら——相手はC級以上。真壁自身が対処しきれない可能性を、本人が認めている。
「真壁さん、何かあるんスか」
「うるせえ。使い走りが余計なこと考えるな」
通話が切れた。耳に残るのは、ツーツーという無機質な終話音だけだ。
俺は教室の窓から夕暮れの街を見下ろした。西の空が赤く焼けている。通学路を歩く生徒たち。部活帰りの笑い声。信号待ちをする会社員。コンビニから出てくる親子連れ。この街の表側では、誰もが平穏な日常を生きている。
その裏側で、何かが動こうとしている。
ノートを鞄から取り出し、真壁のページを開いた。『怒ると射程が縮む』の横に、新しいメモを書き加える。
『声のトーン低下。平常時との差異大。緊張している。原因不明——警戒レベル高』
ペンを止めて、自分の書いた文字を見つめた。二年間の観察が告げている。明日の夜、ただの荷物運びでは終わらない。
嫌な予感がする。胃の底が冷たく縮むような、あの感覚。だが断る選択肢はない。ランク外に拒否権なんてものは存在しない。俺にできるのは、目を凝らして、耳を澄ませて、あらゆる情報を拾い集めること。それだけだ。
帰り道、駅前の雑踏を歩きながら、無意識にすれ違う人間を観察している自分に気づいた。歩き方、視線の動き、手の位置。右手をポケットに入れたまま歩く男。不自然に周囲を見回す女。異能者かどうかを選別する癖がもう抜けない。普通の人間はこんなふうに街を歩かない。信号が変わればただ渡り、人とすれ違えばただ避ける。でも俺の目は止まらない。止められない。
俺はポケットの中でノートを握った。使い古した表紙の角が掌に食い込む。
明日の夜——何が起きても、見逃すな。それだけが、ランク外の俺に許された唯一の生存戦略だ。