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不敗の謀聖、和平を謀る

第1話 第1話「砂塵の向こうの歓声」

第1話

第1話「砂塵の向こうの歓声」

砂塵の向こうに、歓声が聞こえた。

最初はただの風鳴りかと思った。北方の荒野を七日も歩けば、耳が乾いた空気の振動を人声と取り違えるようになる。だが砂塵が薄れるにつれ、それは紛れもない人の声——何百、何千という喉から絞り出される歓喜の叫びだと知れた。

北方防衛線から七日の行軍。陸昭衍の率いる帰還部隊が燎原帝国の中原に差しかかると、街道の両脇にはすでに民が溢れていた。打ち振られる旗、投げられる花、子供を肩車して将兵を指さす父親たち。花弁が風に舞い、兵の肩や馬の鬣に降りかかる。道端で膝をつく老婆が両手を合わせ、涙を流しながら何事かを唱えていた。十二度目の勝利。帝国軍師の凱旋を祝う光景は、もはや恒例の行事のようですらあった。

だが、隊列の先頭を行く昭衍の表情に、勝者の昂揚はない。

痩躯に纏った軍師の袍は砂埃にまみれ、馬上の背筋だけが不自然なほど真っ直ぐだった。袍の裾は北方の夜露と泥が幾重にも染みをつくり、かつての紺青はくすんだ灰色に変わっている。齢三十にして帝国全戦線を統べる男の横顔は、凱旋の陽光の中にあってなお翳りを帯びている。頬はこの七日の行軍でさらに削げ、元より鋭い目元の陰影がいっそう深くなっていた。その視線は歓呼の民衆を通り抜け、遥か南方——帝都・煬京の方角に据えられていた。

「軍師殿、そんな顔では民が不安がりますよ」

馬を並べた副官・鄭夏雲が、低い声で囁いた。二十代半ばの女将校。北方戦では別動隊を率いて敵の退路を塞ぎ、昭衍の包囲策を完成させた功労者である。日に焼けた頬に刻まれた浅い刀傷が、まだ赤い。

「笑えとは言いませんが、せめて目だけでも前に」

昭衍は応えず、懐から一通の書簡を取り出した。封蝋はすでに切られている。三日前、帝都から早馬で届いた密勅。受け取ったのは深夜、野営の篝火がほとんど燃え尽きた刻限だった。早馬の騎手は二頭の馬を乗り潰して来たらしく、昭衍の天幕の前で崩れるように膝をついた。その顔に浮かんでいたのは疲労だけではなかった——使者自身が、この密勅の意味を理解しているかのような、怯えに近い表情だった。夏雲はその書簡の存在を知っていたが、中身を聞かされてはいなかった。

「読め」

差し出された紙を受け取り、夏雲は馬上で目を走らせた。数行を読んだところで、手綱を握る指が白くなった。

「——特別審問、ですか」

「論功行賞の前に、だ」

通常、遠征軍の帰還には慰労の宴と褒賞が用意される。それが帝国の慣例であり、将兵の士気を繋ぐ要だった。だが密勅に記された文言は異質だった。『北方戦役における軍師府の独断専行について、枢密院による特別審問を行う。帰還後三日以内に出頭せよ』。

夏雲は書簡を返しながら、声を絞った。

「独断専行とは何を指しますか。全ての作戦行動は陛下の勅許を得ています。記録も残してある」

「記録があるから安全だと思うか」

昭衍の問いに、夏雲は言葉を詰まらせた。記録は刃にもなる。正確に残されているからこそ、切り取り方一つで、従順な忠臣の所業が越権の証拠へと姿を変える。昭衍が何を言おうとしているのか、夏雲には分かっていた。分かっていたが、認めたくなかった。

街道脇の歓声がひときわ大きくなる。村の長老らしき老人が、道の中央に膝をついて頭を垂れていた。白髪を風に乱し、節くれだった両手を地面に押しつけている。その指は土に慣れた農夫の指だった。昭衍は馬を止め、降りて老人の手を取り、立ち上がらせた。老人の掌は固く、温かく、土と陽の匂いがした。

「ありがたいことです、軍師様。倅が北方に出ておりましたが、生きて帰ると聞きました。あなた様の戦は兵を無駄に殺さぬと——」

老人の声は途中から震え、言葉にならなくなった。周囲の民が静まり、その嗚咽だけが街道に響いた。

「息子殿が無事なら何よりです」

昭衍は穏やかに応じ、再び馬上に戻った。老人の目に浮かんだ涙を背に受けながら、その表情はいっそう険しくなっていた。鐙に足をかけるとき、一瞬だけ目を閉じた。この老人が流した涙の一粒が、帝都では自分を焼く薪の一本に変わるのだと、昭衍は知っていた。

夏雲は黙って見ていた。昭衍の戦は常に異端だった。最小の犠牲で最大の戦果を得る。降伏した敵兵は殺さず、投降を促す檄文を戦の前に撒く。捕虜には食事を与え、故郷への帰還を許す。前線の兵には必ず三日に一度の休息を確保させ、負傷兵の後送を最優先とした。それが十二度の無敗を支えた手腕であり——同時に、朝廷の武断派からは「甘い」「軍師が戦功を独占している」と批判される種でもあった。武断派にとって、敵を殺さず勝つ戦など戦ではない。兵に慕われる将など、王権への挑戦に他ならない。

「軍師殿」夏雲は馬を寄せた。「審問の件、手を打ちますか。枢密院には顔の利く者が——」

「不要だ」

「しかし——」

「手を回せば、やましいことがあると認めることになる」

昭衍は前方を見据えたまま言った。その声には怒りも焦りもなく、ただ乾いた諦観があった。夏雲が最も恐れる昭衍の声色だった。怒る昭衍は戦える。焦る昭衍は策を編める。だが諦めた昭衍は——。

夏雲は唇を引き結んだ。北方で敵の本陣を前にしたときでさえ、この男の声からこんな色は聞いたことがなかった。あのとき昭衍は三万の寡兵で十万の敵を包囲する策を語り、その声は凪いだ湖面のように静かだったが、底には確かな熱があった。今の声にはそれがない。

「考えすぎではないですか」夏雲はあえて軽く言った。「陛下は軍師殿を十年重用してこられた。北方の大勝の後で、まさか——」

「十年で十二の勝利を収めた。そのたびに民は俺の名を呼び、将兵は俺に忠誠を誓った」

昭衍は初めて夏雲を見た。その目は、戦場で敵の布陣を読むときと同じ——冷徹で、あらゆる可能性を計算し尽くした目だった。

「夏雲。玉座に座る者が最も恐れるものは何だ。敵国の軍勢か。民の飢えか」

夏雲は答えなかった。答える必要がなかった。街道の歓声が、その沈黙の中でひどく残酷に響いた。「軍師様万歳」という叫びが、繰り返し、繰り返し聞こえてくる。玉座にいる者の耳に、この声はどう届くのだろう。

「——民に慕われすぎた臣下だ」

風が変わった。北の乾いた風に混じって、南から湿った空気が流れてくる。帝都の方角だ。その風は土埃と花の残り香を攫い、代わりに雨の気配を運んできた。昭衍は空を仰ぎ、薄く目を細めた。雲の流れが速い。灰色の雲塊が南から北へ、まるで帝都から追い立てられるように流れていく。嵐が来る。天候の話ではなかった。

行軍はなおも続く。街道は帝都に向かって緩やかに下り、やがて煬京の城壁が地平に浮かぶだろう。その城門を最後にくぐることになるかもしれない、と昭衍は思った。十年で築いた全てが、あの壁の向こうで瓦解する。密勅の文面は審問を謳っているが、その奥にある意思を読み違えるほど昭衍は愚かではなかった。

夕刻、野営の天幕で、昭衍は地図を広げていた。北方防衛線の配置図ではない。大陸全土の勢力図だった。燎原帝国の版図を示す赤が、地図の半分以上を覆い尽くしている。その赤を広げたのは、他ならぬ自分だ。

蝋燭の灯りが揺れるたびに、地図の上を影が這う。赤い版図の境界線が、まるで呼吸するように伸縮して見えた。昭衍は指先で北方の防衛線をなぞった。ここで敵将を降し、ここで敵軍を分断し、ここで補給線を絶った。すべての戦を覚えている。すべての犠牲も。

夏雲が天幕に入り、茶を置いた。湯気が蝋燭の灯りに照らされ、薄い金色に光った。茶碗は粗末な陣中用の土器だったが、夏雲はいつもそこに湯を満たしすぎない。行軍中に馬上で啜る癖のついた昭衍が、溢さずに飲める量を知っているのだ。昭衍は地図から目を上げず、呟いた。

「夏雲。この凱旋が最後になるかもしれん」

夏雲の手が止まった。茶碗から湯気が一筋、天幕の暗がりに溶けていく。長い沈黙だった。天幕の幌布が風に叩かれ、乾いた音を立てた。

「そのときは——」

「聞くな」

昭衍は地図を畳んだ。その仕草は、一つの時代を閉じるように静かだった。赤い版図が折り目の中に消え、最後に見えたのは帝都・煬京を示す金の点だった。

天幕の外で、兵たちが勝利の歌を歌っている。焚き火の明かりが幌布を橙に染め、笑い声が夜風に乗る。不敗の軍師がもたらした、十二度目の凱歌。誰かが拍子を取り、誰かが酒杯を打ち鳴らし、誰かが故郷に残した妻の名を呼んだ。この兵たちの歓びは本物だった。自分が生きて帰れたのは軍師のおかげだと、心の底から信じている。その信頼が、昭衍にとってはどんな勲章よりも重く——そして今は、どんな枷よりも苦しかった。

だがその歌声が帝都に届くとき、それは祝福ではなく、玉座への脅威として響くのだ。

煬京まで、あと三日。

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