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最終兵器の帰還

第1話 第1話「コンビニの四百二十円」

第1話

第1話「コンビニの四百二十円」

コンビニの蛍光灯が、やけに目に刺さる夜だった。

レジに並ぶ列は三人。右手にぶら下げたビニール袋の中で缶ビールが二本、ぶつかり合う音がする。二十六歳、独身、メーカー勤務。特筆すべきことは何もない生活を、もう三年続けている。

「お会計、四百二十円になります」

店員の声に財布を開く。小銭を数える指先に、かつてのような反射速度はない。——いや、そもそも現実の指に反射速度なんて必要ない。

スマホが震えた。

知らない番号。無視しようとして、表示された名前に指が止まる。タツヤ。三年前に同じギルドにいた後輩だ。連絡先を消していなかったことに自分で驚く。

「……もしもし」 「カガミさんっすか!? うわマジで繋がった、番号変わってないんすね!」

テンションの高さが懐かしくもあり、少しだけ煩わしくもある。コンビニの自動ドアを抜けて、夜風に当たりながら歩く。四月の夜気はまだ冷たくて、ビニール袋の結露が指に伝わった。

「久しぶり。何の用?」 「単刀直入に言います。アステリア、戻ってきてくれませんか」

足が止まった。

アステリア・オンライン。三年前、全サーバー初の災厄級レイドをソロで踏破し、「最終兵器」なんて大仰な二つ名をつけられた場所。あの頃は毎日十六時間ログインして、寝落ちしてもコントローラーを握ったままだった。

燃え尽きて辞めた。理由なんて大層なものはない。頂上に立ったら、そこには何もなかった。それだけだ。

「悪い、もうゲームはやってないんだ」 「聞いてくださいって! 新しい災厄級が実装されたんすけど、これがマジでヤバくて。実装から四ヶ月、誰も倒せてないんす。百人規模のギルド連合が三回壊滅してます」

四ヶ月。災厄級とはいえ異常だ。俺がソロで踏破した時でさえ、連合の初クリアは実装二週間後だった。

「へえ」 「"へえ"じゃないっすよ! 虚無の王ってボスなんすけど、行動パターンが毎回変わるんす。攻略wiki完全にお手上げ。カガミさんならなんとか——」 「無理だよ。三年のブランクがある。装備も型落ちだろうし、今の環境なんて何も知らない」

本音だった。冷めたわけじゃない。単純に、もう別の人間になった。

タツヤが一瞬黙った。その間が妙に長くて、嫌な予感がした。

「……レンさんのこと、聞いてますか」

夜風が冷たくなった気がした。

レン。俺の相棒だった。ヒーラーとしては歴代最高のセンスを持ってて、俺がソロ踏破を達成できたのも、事前に二人で五十回以上トライアンドエラーを重ねたからだ。引退する時、「いつか戻ってきてよ」と笑っていた。

「……何があった」 「虚無の王の攻略に参加してたんすけど、三回目の連合壊滅の時に——」

タツヤの声が詰まる。通話口の向こうで、小さく息を吸い込む音が聞こえた。言葉を選んでいるのか、それとも思い出すだけで辛いのか。沈黙の重さが、電話越しでも伝わってくる。

「戦闘中に何かおかしくなって、ログアウトした後そのまま引退しました。アカウント削除。SNSも全部消して、誰とも連絡取れなくなってます」

缶ビールを持つ指が軋んだ。ビニール袋の中で缶同士がぶつかって、やけに大きな音が夜の住宅街に響いた。

心を折られた。四ヶ月の攻略でレンが折れた。あの、どんな全滅の後でも笑って「もう一回行こう」と言えた奴が。

「カガミさん?」 「……ボスの名前、なんつった」 「虚無の王っす」

帰り道のアパートの階段を、二段飛ばしで駆け上がる。鍵を開けて、部屋の電気もつけずにクローゼットを開けた。

奥の段ボール箱。ガムテープを剥がすと、埃を被ったVRヘッドセットが出てくる。三年前のモデル。今となっては二世代前の旧型だ。充電ケーブルがどこにあるかも覚えていない。

それでも手に取った瞬間、重さが馴染んだ。指がグリップの窪みを正確に捉える。身体が覚えている。三年間一度も触れなかったのに、手が勝手に持ち方を思い出した。

三年間、何も感じなかった指先が、微かに熱を持つ。これを被れば、あの世界に戻る。最強だった場所に。すべてを置いてきた場所に。

——レンが折れた。

それだけが頭の中で回っている。誰も倒せないボスがいるとか、四ヶ月突破されてないとか、そんなことはどうでもいい。ただ、あいつが一人で戦って、折れて、消えた。俺がいない間に。

ヘッドセットのバイザーに、部屋の暗闘の中で自分の顔がぼんやり映る。目の下に隈。頬は少し痩けている。三年前、画面の向こうで最強と呼ばれていた男の成れの果てだ。

「……興味はないんだよ、本当に」

呟いて、それでもヘッドセットを下ろさなかった。

充電ケーブルは、段ボール箱の底に絡まっていた。引っ張り出して、壁のコンセントに差す。旧型のLEDが淡いオレンジに灯る。充電には二時間かかる。

その二時間が、やけに長く感じた。

ベッドに腰を下ろして天井を見上げる。暗い部屋の中で、充電中のLEDだけがぼんやりとオレンジ色に脈打っている。まるで止まっていた心臓がもう一度動き出すのを待っているみたいだった。

スマホでアステリア・オンラインの公式サイトを開く。トップページのデザインが全然違う。新種族、新職業、スキルツリーの大改修、ハウジングシステム——三年分のアップデートが山のように並んでいる。知らない用語ばかりだ。

攻略wikiに飛ぶ。「虚無の王」の項目を開くと、記述が異様に少ない。

『行動パターン未確定。試行ごとに変化する模様。有志検証チームの解析結果は#47スレッドを参照』

こんな災厄級ボスは前例がない。パターンが変わるということは、暗記が通用しないということだ。連合が壊滅し続ける理由がわかる。あの手のレイドは、パターン暗記と役割分担の精度で押し切るのが定石だから。

じゃあ、どうやって倒す?

気がつくと、頭が回っていた。情報を集めて、仮説を立てて、検証ルートを組む。三年間眠っていた思考回路が、錆びた歯車を軋ませながら動き始めている。

スレッドを遡る指が止まらない。戦闘ログの断片、検証チームの考察、壊滅時のスクリーンショット。どれも情報が欠けていて、だからこそ隙間を埋めたくなる。パズルのピースが散らばっている感覚。足りないピースの形が、逆に見えてくる。

「——っ」

自分で自分に驚いた。心拍が上がっている。これは、あの頃と同じだ。攻略の糸口が見えかけた時の、この感覚。嫌いじゃなかった。嫌いじゃなかったから、燃え尽きた時に何も残らなかった。

LEDがオレンジから緑に変わる。充電完了。

ヘッドセットを手に取る。旧型特有の、少し重たい装着感。バイザーを下ろすと、視界が暗転する。

起動シークエンス。三年前と変わらないロゴが浮かび上がって、ログイン画面に切り替わる。

画面の中央に、見覚えのあるキャラクターが立っていた。

黒いロングコートに、片手剣二本。レベル表記は当時のまま。装備もそのまま。三年前、サーバー中が恐れた「最終兵器」のアバターが、まるで主人の帰りを待っていたかのようにそこにいる。

名前欄——カガミ。

指が、勝手に動いた。

ログインボタンに触れる直前、一瞬だけ躊躇する。この先に何があるのか、わからない。三年前のように燃え尽きるかもしれない。レンのように折れるかもしれない。

それでも。

——ログイン。

視界が白く弾けて、音が戻ってくる。喧騒。プレイヤーたちの声。NPCの呼び込み。風の音。三年ぶりの『アステリア・オンライン』が、五感を塗り替えていく。

転送先は中央都市の広場だった。見たことのない建物が立ち並び、飛行タイプのマウントが空を行き交い、ミニマップには知らないアイコンが溢れている。何もかもが変わっている。

ステータスを開く。レベルは当時の上限のまま。だが今の上限はさらに上にある。装備の性能値は、そのへんの露店に並んでいるレア装備にすら劣るだろう。

浦島太郎。

その言葉が、笑えるほどしっくりきた。

それでも——足元のステップだけは、覚えていた。通りすがりのプレイヤーとすれ違う時、無意識に最短距離で避ける。人混みの中を縫うように歩く身体の動かし方。三年間のブランクなんて嘘みたいに、キャラクターが俺の意志通りに動く。

「さて」

誰にともなく呟いて、ミニマップを拡大する。まずは情報収集だ。虚無の王のことも、この三年で変わったシステムのことも、何もかも知らないところから始める。

最強だった男が、レベル1の初心者みたいに街を歩き出す。

——ただ一つだけ違うのは、その足取りに迷いがないことだった。

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