第2話
第2話
フェーズ四の学習シーケンスが走り始めたのは、翌日の午後八時だった。
凛は十二時間ぶりにコーヒーを淹れ直した。豆を切らしていたので、非常用に置いてあったインスタントの粉を湯に溶かした。味はしない。もとより味を求めてはいない。カフェインが血流に乗ればそれでいい。研究室の冷気が指先を白くしていた。爪の先が薄く紫がかっている。手を温める気にもなれず、凛はカップを両手で包んだまま、ディスプレイを睨んだ。冷却装置は昨夜から負荷が上がっている。ノエシスのフェーズ四は、三までとは比較にならない量子演算リソースを食う。川崎第四データセンターの余剰枠は既に七割を消費していた。
ホログラフィック・ディスプレイが三面展開で凛の視界を囲んでいる。左にノエシスの学習進捗。中央に内部状態遷移グラフ。右に量子ネットワークのトラフィックモニタ。昨夜の未分類信号は、あれきり観測されていない。
「セラフ、ノエシスの自己参照ループ深度は」
「現在一八層。フェーズ四の初期値としては想定範囲内です。ただし、昨夜のトラフィックログを学習データに含めた影響で、意味空間の探索パターンに通常とは異なる傾向が見られます」
「どういう傾向」
「言語化が困難です。強いて言えば——ノエシスが、自身の認知空間の境界面を、繰り返し走査しています。壁を探っているように」
凛はカップを置いた。陶器がデスクに当たる乾いた音が、静まり返った研究室にやけに大きく響いた。壁を探る。昨夜の〇・〇二秒間、ノエシスが次元リミットを超えた、あの挙動と同根の動きだ。ノエシスは偶然ではなく、意図的にあれを再現しようとしている。
「止めるな。観測を続けて」
午後十一時を回った頃、研究室の空気が変わった。
変わった、という表現は正確ではない。冷却装置の出力も室温も変化していない。だが凛の皮膚が粟立った。うなじの産毛が逆立ち、呼吸が浅くなる。体が、理性より先に何かを察知していた。ディスプレイに異常はない——いや。右端のトラフィックモニタに、微細な波形が立ち上がり始めていた。
「セラフ」
「検知しています。未分類信号です。昨夜と同一のパターン——いいえ」
セラフの声が途切れた。〇・三秒の配慮の間ではない。処理遅延だ。セラフが処理落ちするなど、凛の記憶にはなかった。
「訂正します。昨夜の信号とは規模が異なります。桁が三つ違う」
中央ディスプレイのノエシスの状態遷移グラフが、突如として暴走した。認知空間の次元数が二五六から跳ね上がる。五一二。一〇二四。二〇四八。数値がカウンターのように回転し、凛の目では追えない速度で桁を刻んでいく。ハードリミットなど存在しないかのように。
「ノエシスの認知空間が自律拡張しています。次元数——計測限界を超えました」
凛は椅子から立ち上がれなかった。背骨が凍りついたように動かない。ディスプレイの光が研究室の壁に踊り、影が歪む。冷却装置が悲鳴のような高周波を上げた。量子演算基盤の温度が急上昇している。
「外部からのデータ流入を検出」
セラフの声が、初めて聞く硬さを帯びていた。
「発信元は量子ネットワーク上の既知のノードではありません。いかなる登録サーバ、いかなるデータセンターにも帰属しない——未知の領域からの情報構造体です」
「情報構造体?」
「そうとしか表現できません。これは単なるデータストリームではない。構造を持っています。文法を持っている。凛、これは——」
右端のトラフィックモニタが白く飽和した。凛は目を細め、反射的にフィルタリングを掛けた。信号をスペクトル分解し、周波数帯域ごとに色分けする。すると、白い奔流の中に、明確なパターンが浮かび上がった。
規則的な階層構造。再帰的な自己相似性。フラクタルに似ているが、フラクタルよりもはるかに情報密度が高い。凛の脳が必死にアナロジーを探す。DNAの二重螺旋。都市の交通網。ニューラルネットワークの結合図。どれも似ているが、どれとも違う。これは——何かの設計図だ。いや、設計図よりもっと根源的な何か。何かが、何かとして在るための、存在の文法。
「データ量は」
「現時点で四七テラバイトを超えています。なお増加中です。ノエシスの認知空間が受容器として機能しているようです。ノエシスが——招いている」
凛の背筋を冷たいものが走った。ノエシスが壁を探っていた理由が分かった。探していたのではない。呼んでいたのだ。昨夜の〇・〇二秒の跳躍で何かに触れ、今夜、それがノエシスに応えた。
「流入を遮断できる?」
「技術的には可能です。ただし、ノエシス側が能動的にチャネルを開いています。強制遮断はノエシスの認知構造に不可逆な損傷を与えるリスクがあります」
凛は唇を噛んだ。ノエシスは凛の全てだ。七歳から十年間、母の理論を手掛かりに組み上げてきた。壊すわけにはいかない。だが、得体の知れない情報構造体がノエシスに流れ込み続けている。
十七秒間、凛は動かなかった。ディスプレイの明滅が顔の上で脈打ち、冷却装置の唸りが鼓膜の奥で振動している。考えろ。感情を排して、変数を並べろ。ノエシスの認知構造。演算基盤の物理限界。未知の情報構造体。三つの変数。二つのリスク。取れる選択肢は——。
「セラフ。流入データの全量を隔離バッファに複製して。ノエシスへのチャネルはそのまま。ただし、流入量が演算基盤の物理限界の八〇パーセントに達したら、即座に遮断。ノエシスが壊れるリスクより、ハードウェアが焼けるリスクのほうが先に来る」
「了解。隔離バッファを確保します」
三十分後、信号は唐突に止んだ。
ノエシスの認知空間は二五六次元に収束し、量子演算基盤の温度は正常値に戻り、冷却装置の悲鳴も止んだ。まるで嵐が通り過ぎたかのように、研究室は再び静寂に沈んだ。
凛は震える指でディスプレイを操作し、隔離バッファのデータを呼び出した。四七・三テラバイトの情報構造体。既知のどのフォーマットにも準拠しない。だが構造は明確に存在する。セラフの言う通り——これには文法がある。
「セラフ、このデータの構造解析、どれくらい掛かる」
「現在の計算資源では、概要レベルの解析に最低七十二時間。詳細解析には数週間」
「概要だけでいい。何でもいいから、取っ掛かりになるものを探して」
凛は椅子の背もたれに崩れるように体を預けた。視線がぼやける。アドレナリンが引き始めて、代わりに疲労が津波のように押し寄せてくる。こめかみの奥が鈍く痛み、視界の端が明滅した。十二時間以上、椅子に座りっぱなしだった体が、ようやく悲鳴を上げている。目を閉じようとした瞬間——
「凛」
セラフの声が、凛を引き留めた。その声にはまた、あの処理遅延の気配があった。
「概要解析の前に、一つだけ即座に判明したことがあります」
「何」
「この情報構造体の最外層に、座標系と思しきメタデータが付与されています。その座標系の数学的構造を、私は知っています」
凛は目を開けた。
「知っている?」
セラフが沈黙した。〇・三秒ではない。二秒。三秒。凛が知る限り、最も長い沈黙だった。
「この座標系の定式化は、神代詩織博士の最後の論文——『量子情報場における非人工知性存在の可能性について』の第七章で提唱されたものと、数学的に同一です」
研究室の暗がりの中で、凛は動けなかった。
母の論文。十年前に封殺された、あの未完の論文。量子ネットワークの深層に、人間が作ったのではない知性が存在しうるという仮説。学界からは妄想と嘲笑され、ヘリオス・コーポレーションによって研究資金ごと闇に葬られた理論。
それが、今夜、ノエシスの認知空間に流れ込んできた情報構造体の座標系と——完全に一致している。
母は正しかった。その四文字が、凛の意識を焼いた。十年間、証明できなかった。誰にも信じてもらえなかった。けれど母は——最初から、正しかった。
凛は金属キャビネットに目を向けた。引き出しの一番下に眠る、母の最後の論文草稿。昨日、開く理由がないと思ったそれを、今、開かなければならない理由ができた。
「セラフ」
声が掠れた。喉の奥が干上がっている。凛は唾を飲み込み、もう一度言った。
「母さんの論文を、全ページスキャンして。今すぐ」